今年も、卒業式のシーズンになってきました。
「仰げば尊し」「蛍の光」。今、卒業式で歌われるのは私たちの知っているこの曲ではないんですね。フジテレビさんによると、6割の学校で歌われているのは、10年ほどまえに出来た「旅立ちの日に」という曲だそうです。まだ、聞いたことがないですし、きっと、これだけ指示されているのであれば良い曲で、好きになってしまうと思うのですが、歌詞だけを見て、複雑な気持ちになりました。そこに歌われているのははぐくんで来た友情や、これから向かう日々への夢。「恩師への礼」や「切磋琢磨する思い」ではありません。
「式」って何だろうな、と最近良く思うことがあります。「結婚式」、「お葬式」、「卒業式」、「入学式」そして「成人式」。それらはすべて儀式、だと思うのです。古くさいと笑われるかもしれませんが、伝統を守るものであり、そこに過剰に意味を求めるものではないと思います。裏返せば、本人にとって居心地の良い場所であるかどうかが問題ではないと思うのです。
最近、お葬式の清め塩に関する話で考えさせられました。死を穢れとしてとらえるところから、差別行為に結びつく、という理論もあるようです。浄土真宗では清め塩を否定するそうで、お寺の中にはこのような広報をしているところもあります。浄土真宗という一派の中でとらえるとそれで差し支えないと思うのですが、それを他の宗派でも適用しようとするのは、大きな間違いです。そもそも、式典とは、理論とか、理由付けをするようなものではなく、よっぽど大きな間違いをしていない限りは、それを守っていくべきものであるはずです。理由が無い、ということになれば、仏教に限らず宗教的儀式のほとんどは意味をなさないものになるでしょうし、一神教であるキリスト教、そしてイスラム教を理解することはとてもできはしないでしょう。
新しくできた良い曲を否定する気は毛頭ありませんし、ぜひ、この曲を思い出に卒業していく人が増えてくれればと思います。ただ、この歌を歌うことになったから、「仰げば尊し」「蛍の光」を歌わなくなりました、というのはいかがなものかと思います。これらの歌を歌うようになったのは、短い伝統かもしれませんが、それなりの理由があるはずです。荒れる成人式、そこには「式典」を我慢することができなくなった、そんなこころの発端がこういうところにあるのかもしれません。
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